茜子の日記

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ちょっとずっと鬱

 

 

「死にたいけどトッポッキは食べたい」という韓国のエッセイが人気だ。

 

いつも自分に自信がなくて、ぼんやり死にたいと思っているのに、おなかがすいてトッポッキが食べたいとも思う。はっきりしない私の心はどうなっているんだろう。不安神経症に悩む著者が精神科医との会話を通して見つめる自分自身の姿に共感の嵐! 韓国で40万部を超えた大ヒットノンフィクション待望の邦訳。1日中憂鬱に感じられる日だって、些細なことに笑っていい。相反する気持ちを抱えることが、生きているという事だから。

 

大体私も似たような症状、感情のまま生きているが、私にははっきりと鬱になったことがあった。

 

私の人生3度目の鬱が訪れている今、

私の鬱について書いてみようと思う。

 

 

⒈ クラスに馴染めなかった

 

高校に入学した春、鬱になった。

うちの高校へ進学した中学の友達はあまりおらず、完全アウェイな状況での高校生活スタートだった。中学卒業まではそれなりに友達関係も良く、誰かと亀裂が入ったりしたことはなかったのでそんなに不安を抱いたりはしなかった。

 

クラスは40人中8人のみが男子で、他は全員女子。英語カリキュラムに特化したいわゆる特別コースだった。

 

女子はすぐに群れを作った。何も面白くない話で盛り上がっているフリをし、弁当時間は我こそは!と友達同士で机をくっつけて島を作った。

 

私も当然その輪に入らなければいけないと思い、必死についていこうとした。全く楽しくはなかったが、そのグループにいることがきっと安全であると思い込んでいた。

 

でもやはり楽しくはなく、スマホをいじる時間が増えた。群れからすこーしずつ離れていき、SNS・ラインで人と繋がることを覚えた。Twitterの趣味アカウントを作って知らない人と交流したり、少し勇気を出して結構な人数のいた校内のライングループで発言をしてみたりした。それはそれで楽しかった。

 

トイレに入っていると、群れの数人がトイレに入ってくるのがわかった。鉢合わせないように彼女たちが出てから出よう。

 

そう思っていた矢先に「見た?さっき〇〇ちゃんがライングループで何か言ってたの」という声が聞こえた。私のことだった。

 

その話はすぐに終わりそうではあったが、いい内容ではない事は容易に想像できたので、我慢するどころかそれ以上は聞きたくないと思い、私はトイレの個室からバン!と扉を開けて出て行った。

 

彼女たちはぎょろっと私を見ながら「やばいやばい」とヒソヒソ笑いながらトイレを出た。

 

彼女たちと直接的に何かアクションがあったというとその程度ではある。

特にいじめられた訳でも、喧嘩した訳でもない。

単純に教室の居心地が悪く、誰とも打ち解けられず、昼休みは宿題をするというカモフラージュを使って一人で過ごした。そもそも学校へのモチベーションが上がらず勉強を疎かにしていた。授業も宿題もちゃんとしなかった。

 

 

だんだん悲しくなってきた頃、そして体調も悪くなり『自律神経失調症』だと診断された頃、

古典の宿題を昼休みにしようとノートを開いた。群れの中でも少し大人しめで優しめな子に声をかけ、よく分からないからノートを見せてくれないかと聞いた。その子は群れでどこかに(多分運動場へ遊びに)行こうとしていたところだった。

 

ノートくらい普通に見せてくれると思った私が馬鹿だったか、その子は少し顔をしかめながら

「……本を見たらわかると思うよ」とだけ言い残し、群れと共に走って行った。

 

その出来事があまりにも悲しくて、何年経った今でも忘れられずにいる。

友達がみんな走って向かおうとしているのに、私にノートを貸す数秒で置いていかれると思ったのだろう。または自分がちゃんとまとめたノートを人に見られるのが嫌だったかもしれない。(その後の学校生活で後者ではない事は明らかになった)

きっとその子も集団に所属しなければならない強迫観念に、知らず知らずの内に犯されていたのだろう。無理はないし、そもそもちゃんと勉強せずに宿題もしてこない私が一番悪かった。

 

その子から卒業の時に「あなたが入学当初、よく学校を休んだり辛そうにしてた時に助けてあげられなくてごめんね」と言われた。正式には手紙の一文にそう書いてあった。

 

 

彼女が“ノート事件”を覚えているかどうかは分からないが、

あの時ノートを貸してくれていれば、少なくとも当時の私は少し救われたと思うし、あなたとの一点の曇りをここまで引っ張らずに済んだのにね。と思っている。

 

  

私はこの頃、「死にたいけど、推しにもう一度だけ会いたいし…」

という思いで生きていた。推しがいなければ多分死んでいた。

 

無事に推しにも会え、実生活で好きな人もでき、

気の合う友達ができたことで人生初の鬱は終わった。

不思議な感覚だった。

 

 

 

2.大学の復学生活に馴染めなかった

 

大学3年の前学期、鬱になった。

 

大学2年の時に海外へ交換留学に行った。その国のエンターテインメントが好きで、その国の文化が好きで、その国の言語が好きで留学を決めた。

 

日本での大学生活は想像していたものよりも面白味はなかった。教授と仲良くなったり、授業に積極的に参加したり、自分の好きな時間割で履修し、学びたいことを思いっきり学べる環境だと思っていたが実際はそんなことなくて、自由に時間割を組めるとはいうものの必須科目が多くカリキュラムはほぼ学校側に決められており、学科の子たちは特にやる気もなく授業中もずっとおしゃべりをしていた。うるさすぎて授業の席が指定制になった。誰もノートにメモを取らないので教授は毎度、カッコ付きのプリントを配り、学生たちは教授がモニターに写す資料を見ながらそのまま穴埋めをするという作業を繰り返した。塾や高校、いや小学校と変わりなかった。

 

 

学校で一生懸命にすること、積極的に言動することが何だか恥ずかしいとされるこの国では隠れてテスト勉強することがどうやら美徳とされるらしく、私よりもやる気の無いように見える(もしくはそう見せている)子達は穴埋めや暗記が中心の客観式テストの点数だけは良かった。私は自分の考えを書く主観式に関しては自信があったが、そもそも日本の大学にはそんなテストなど存在しなかった。

 

 

モヤモヤとした大学1年を過ごしていたが、2年生で1年間交換留学し、思う存分積極的に勉強することの楽しさを覚えた。そこでは一生懸命にしない方がおかしいとされ、授業中に意見を言ったり教授にいい意味で媚を売ることも大事とされた。その環境が私には合っていた。初めて勉強が心底楽しいと思えた。自分がなりたい夢、職業にも近づける気がした。

 

 

交換留学には終わりがあり、3年生の春に元の日本の大学へと復学した。

勉強の楽しさを、自分に合った環境があるということを知ってしまった以上、元には戻れなかった。

 

学校が本当に楽しくなくなり、かと言って高い授業料を払っているのに行かないわけにも行かない。

卒業まであと2年か、友達と話すのも授業を聞くのも通学時間も憂鬱になった。

 

憂鬱すぎて地元の精神科に電話した。単に「うつ病」という診断が欲しかった。

明日にでも行きたいんですが、と伝えると、「3ヶ月先まで予約でいっぱいです」と言われた。

その事実は色々と辛かった。

 

私はこの頃、「死にたいけど、夢はあるし…」

という思いで生きていた。夢が無かったら、多分死んでいた。

 

 

ずっと暗い顔で生活していたら祖母が心配して語りかけてくれた。

何がどう辛いのか、これからどうしたいのか、一つ一つ聞いてくれた。

 祖母と話している内に答えが降りてきた。

 「私、海外の大学に編入する」

 もちろんそれまでも考えた事は何度もあったが、そこまで気持ちの乗らない案だった。

鬱だから、それを肯定的に建設的に考え、準備できる場合でもなかった。

 

その時はなぜか、ものすごく勢いよく言葉にすることができた。パッと口から出た言葉はものすごく力を持っていた。

 祖母と話し終えて、海外の大学に編入することに決めた。あっという間に決まった。

 

窓を開け、ドアを閉めた部屋で話していたが、祖母が帰ろうとドアを開けるとびっくりするほどの風が部屋に入ってきた。

 

その瞬間、私は私の体に風の通り道が無かったことに気がついた。

窓を片方開けたからといって、風が通るわけじゃない。出口がないのだから。

入り口しかないから溜まるばかりで換気がされない。

 

 

人生につまずいた時、風の通り道を作ることが一番重要であることに気がついた。

その場から出て行く扉、私にとっての出口は、今居る環境から逃げて新しい場所に身を置くことだった。

 

 

逃げるは全く恥ではない、ただただ役に立つ。

 

 

 

 

3.いろんな要因が重なってしまった

 

会社員になった年の夏、鬱になった。

 

というのは現在進行形の話であり、まさに今。

 

本当にたくさんの要因が重なってしまい、何から話せばいいのか分からない。

 

まず、仕事がとても忙しく、外資の小規模支社だからか、ちゃんとした会社のマニュアルや業務分担などが行われておらず、社会に出て初めて”働く”ということをする私には難しい社風だった。

 

普通に出勤していても難しかったであろうに、ご存知の通りコロナウイルスは未だに収束の気配を見せておらず、入社の次の日から在宅勤務。今でも私は会社の人たちの顔も知らないまま働いている。

みんなが普段どんな会話をしながら仕事をしているのかも、一人一人どんな性格なのかも掴めないままチャットの文字で指示されるまま働いている。楽しいわけがない。

時間を拘束されることも、週末に連絡が来ることも、夜遅くまで働いていることもしんどいのに、休日は「外出自粛要請」でろくにストレスを発散できる場所もない。しかも今はずっと天気が悪い。

洗濯物は乾かないし、日光を浴びながら散歩をすることもできない。

 

一人暮らしの在宅勤務+コロナ+雨=鬱

 

精神的には結構限界なのだが、いつか雨は止むであろうしコロナも少しは落ち着くはずだと思い期待してしまう自分がいる。もう少し我慢すれば、仕事も楽しくなるのではないか、と。

 

 

鬱は何度も経験してきているし、

そもそも鬱っぽい人生だけれど毎回とても辛い。

今回は自分がどのようにこの鬱を切り抜けるかまだわからないが、

きっと何かのきっかけで上手く克服するだろうと思う。

今までもそうだったから。何の出口も見つかってないけど、自分を信じるしかないようだ。

 

 

これは初めて抱く感情だけれど、

「死にたいけど、家族には会いたいし…」と今は思っている。